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9話. 飾りの妻には戻らない

Autor: 6jay
last update Fecha de publicación: 2026-09-24 23:25:35

怜司の冷たい声が、部屋の壁に響いた。

沙耶はその目に圧され、一歩後ずさった。

「れ、怜司先生……ただ、お会いできてうれしかったから、ご挨拶しただけですよ。どうしてそんなに怖い顔を?」

無理に笑い、引き締まった腕に触れようとした。

けれど怜司は、指が届く前に身をかわした。

「ルミナスのVVIPルームは、担当トレーナーとご予約の会員様以外、施設の責任者であっても勝手には入れない区画です。規約を忘れたんですか」

ためらいなく、壁のインターホンを取った。

『はい、VVIP受付です』

「桐生です。3番ルームに、別部門のフリーランス講師が無断で入り、レッスンを妨害しています。受付マネージャーをすぐによこしてください。退出の対応と、契約違反への処分手続きをお願いします」

『は、はい! 申し訳ありません、桐生チーフ。直ちに対応いたします!』

統括マネージャーの慌てた声が、受話器から響いた。

沙耶の顔が、屈辱と恐怖で白くなった。

施設のエースで、元日本代表のVVIP統括チーフ。その一言があれば、フリーランスにすぎない自分の契約など、明日にでも打ち切られかねない。

「……お2人とも、本当にひどいんですね」

怒りをのみ込めないまま2人をにらみ、ヒールを高く鳴らして出ていった。

ドアが閉まる。

トレーニングルームに、静けさが戻ってきた。

怜司は紗月へ向き直り、丁寧に頭を下げた。

「不愉快なことでレッスンを妨げてしまい、申し訳ありません。施設として、再発防止と処分を徹底します」

紗月は首を振った。

口元には、かすかでも確かな笑みがあった。

「いいえ。先生が謝る必要はありません」

「……はい?」

「ありがとうございます。1人だったら、私が悪かったのかもしれないと思っていたはずです。さっきは……言いたいことを、最後まで言えました」

もう、傷ついて不安に震えるだけの目ではなかった。

自分の足で立ち、向き合っていこうとする意志が、青い火のように宿っていた。

怜司は黙って見つめた。

いつも冷静な口元に、ごく淡い、温かな笑みが浮かぶ。

「続けても大丈夫ですか。もう少し休まれても構いません」

彼は紗月を、バーベルやダンベルが整然と並ぶフリーウエイトのエリアへ案内した。

「今日は下半身の軸と、臀部、体幹のバランスを整えます。スクワットと、ルーマニアンデッドリフトです」

バーベルの前に立つ。

後ろに来た怜司の大きな手が、骨盤の両側と第3腰椎のあたりに置かれた。

重い体温が、背骨の線に沿って染み込んだ。

「足の裏の3点を、しっかり床につけてください。腹圧を入れ、胸椎を伸ばして、肋骨を閉じる……ゆっくり股関節を後ろへ折りながら下りましょう」

背中に触れそうなほど、彼の胸が近づく。

深く静かな呼吸と森の香りが、全身の感覚を揺らした。

「っ……」

臀部と太腿の裏が伸び、重い刺激が満ちてくる。

「足の裏で床を押してください。上がるときに息を吐いて。重ければ、すぐ言ってください」

怜司の手は、骨盤の中心を揺らがず支えていた。

床を強く押して立ち上がると、体の奥が一つにまとまり、背筋を爽快な感覚が走った。

(私……自分の力で、立ち上がっている)

夫に認められなくても。

紗月は、自分の力で立っていた。

* * *

1時間の密度の濃いレッスンとシャワーを終え、紗月はロビーへ出た。

軽くなった体と、自然に整った姿勢。

すれ違う会員やスタッフが、その変わった雰囲気に思わず目を向けた。

駐車場へ向かう途中、バッグの中で携帯が鳴った。

雅人からだった。

深呼吸して、通話ボタンを押す。

「もしもし」

『紗月、今日の夜は空けとけよ』

相変わらず、偉そうな声だった。

『最大の出資元、大成インベストメントの高瀬社長ご夫妻と、ホテルの日本料理店で会食するんだ。お前も久しぶりに顔を出せ。目立たない服で、きちんとして7時までに来いよ。余計なことは言わず、静かに座っていればいい』

外向きの飾りとして妻を使う、厚かましい要求だった。

けれど、高瀬社長の妻で文化財団の理事長でもある玲子は、国内デザイン界の第一人者だった。

5年前、紗月の初期ブランディングを絶賛してくれた人でもある。

夫は知らない、紗月自身のつながり。

口元に、冷たい笑みが浮かんだ。

「わかったわ。遅れないように行く」

電話を切って車へ乗った。

ドアを閉じ、携帯を一度置く。

玲子理事長は、自分の仕事を覚えているだろうか。

夫は食事の間ずっと、自分の手柄を語り、紗月には笑っていろと目で命じるはずだ。

そうされたら、いつものように黙ってしまうかもしれない。まだ、それが怖かった。

紗月は携帯のメモを開き、最初のロゴの仕事名を書いた。

聞かれたら、答えられること。

自分がした仕事からは、目をそらさないようにしよう。

夜7時。

今度は『雅人の妻』という紹介の後ろに、隠れるつもりはなかった。

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